2014年08月01日 「他を利するところにビジネスの原点がある」

「他を利するところにビジネスの原点がある」

弱肉強食のビジネス界で私がしきりに利他だの愛だの思いやりだのと口にしているので、そんなおめでたいことばかり言って、あの美言の裏に何かあるのではないかという声を聞くことがあります。しかし私の巧言を弄して何か企画する気など毛頭ない。ただ自分の信じるところに素直に人に伝え、また自分自身がそれを本気で実践していきたいと念じているだけです。

そもそも歴史を振り返っても、資本主義はキリスト教の社会、なかでも倫理的な教えの厳しいプロテスタント社会から生まれてきたものであることがわかります。初期の資本主義の担い手は敬虔(けいけん)なプロテスタントだったわけで、マックス・ウェーバーによれば、彼らはキリストが教える隣人愛を貫くために厳しい倫理模範を守り、労働を尊びながら産業活動で得た利益は社会の発展のために活かすということを、モットーとしていたといいます。

したがって事業活動においてはだれから見ても正しい方法で利益を追求しなくてはならず、またその最終目的はあくまで社会のために役立てることにありました。つまり世のため人のためという利他の精神が、私益よりも公益を図る心が、初期の資本主義の倫理模範となっていたわけです。自らに向けては、おのれを律する厳しい倫理を、外に向けては、利他という大義を自分たちの義務としていたわけです。その結果、資本主義経済は急速に発展を遂げることができたのです。

同様のことを、わが国でも江戸中期に思想家・石田梅岩が主張しています。当時は商業資本主義の勃興期にあたりますが、身分制度の下で商はもっとも下位に置かれ、商行為そのものがしいものとされる風潮がありました。そのなかで梅岩は、「商人の売利は士の禄に同じ」と述べ商人が利を得ることは武士が禄をはむのと同じ正当な行為であり、決して恥ずべきことではないと、陰でさげすまれることの多かった商人を励ましています。

「利を求むるに道あり」という言葉がありますが、利潤追求はけっして罪悪ではない。ただし、その方法は人の道に沿ったものでなくてはならない。どんなことをしても儲かればいいというものではなく、利を得るにも人間として正しい道を踏まなくはならないと、商いにおける倫理観の大切さを説いています。

「まことの商人は、先も立ち、われも立つことを思うなり」これも梅岩の言葉ですが、要するに、相手にも自分の利のあるようにするのが商いの極意であり、すなわちそこに「自利利他」の精神が含まれていなければならないと述べているわけです。

外食業界のビジネスにおいても同様なことがいえる訳であり、お客様を無視してただ単に企業だけが儲かればよいという商売は基本的に成立しないことだ。特に外食の場合には、食の提供という人が人にサービスをすることによって利益を生み出す仕組み作りであり、そのビジネスのタスいるも多種多様であることだ。

しかし商売である以上企業としては利益を追求することは当然のことであり、いかに利益を生み出すかの商売方法に視点が集中しがちであるものの、現実を直視してみれば、お客に支持されない商売は決して

利益を生み出すことはないことを理解しなければならない。

所謂企業だけが利益を得てお客に利がないことは「ウイン・ウィン」ではないことであり、それでは本来のビジネスとしての倫理観が失われてしまうことだ。前述しているように企業のビジネススタイルにはさまざまであるものの、果たしてお客がほんとうに喜ぶのだろうかという頭を傾げる商売も現実に成立していることだ。

そこには、外食の場合には、人が介してビジネスが成立するという付加価値という曖昧な個別のお客の志向が働くことであり、全てのお客に支持されなくとも、一部の狭い層にでも、多く支持されれば商売として成立する不思議なビジネスでもあることを忘れてはならない。

近年の外食企業の競争はまさしく弱肉強食であり、弱いものは自然に淘汰衰退を余技なくされる厳しい社会になりつつあることだ。つまりお客に支持されない店や企業は成立し続けることは難しく、常に時代の情報や流れを読み切る企業力が求められるところであることだろう。

やはり「商売の原点は、お客様に支持されてこそ」、利益を生み出す原動力になることを忘れてはならない。